その後、ずっと私の言っている「寂しさ」とはいったい何なのかを考え続けている。
このところ大栗博司の「重力とは何か」「強い力と弱い力」「超弦理論」、村山斉の「宇宙になぜ我々が存在するのか」、佐藤勝彦の「インフレーション宇宙論」中嶋彰の「早すぎた男 南部陽一郎物語」そして南部陽一郎自身による「クォーク・2」と続けて読んだ。「クォーク」は約40年前当時に書かれた当時の最先端理論の紹介だが、今では様々の分野で受け入れられ発展の基礎となった世界を表している。「インフレーション宇宙論」と「超弦理論」は提唱者自身や第一線の研究者による一般向け解説書で、私のような数式に弱い者でもわかりやすいように書いてくれている。物理のこのような一般向け解説書を読むと著者の筆力がよくわかる。一般人にもわかりやすい「たとえ話」は筆者の能力や人間性もあらわれる。さすがに「クォーク」は南部自身には当たり前のことをかみ砕いてはいるのだろうが、数式が多くその数式に『美しさ』を感じるには素人の私には厳しかった。それはさておき、読むことでどんどん発想が覚醒し、やる気が出てくる。日常のルーチン作業が苦しいことも一瞬飛んでくれる。
著者の専門分野によって名称や説明の仕方が変わるということは、それぞれの分野におけるとらえ方が違うということであり、宇宙のとらえたも少しずつ違っていることを教えてくれる。素粒子の世界から宇宙まで素粒子物理学の統一理論で説明できるかという事は、発見されたことが数式理論によって矛盾なく説明できるか、またその理論を裏付ける実験や発見によって発展してきた。ひとつ説明できる案ができるとまた新たな問題が生じてくる。それの繰り返しで発展してきたことがよくわかる。数学で表現できるということによって、宇宙の始まりも終わりも数式で予言できるということにつながるらしい。ミクロの世界もこれ以上玉ねぎの皮を剥けない限界がわかるらしい。これらはアインシュタインの「一般相対性理論」以降100年の間に進化してわかってきたことである。特にこの50~60年で多くの発見によって理論が裏付けられ急速に修正進化してきたものである。またその理論に基づいた多くの家庭用の製品も生まれ、我々の生活に変化を与えその便利さを享受している。テレビ、電子レンジ、携帯電話、パソコンとそのソフト技術等々。大栗氏は言っています。『科学の成果が与えてくれる喜びは、文学、音楽、美術などが、もたらすものと変わるところがありません。自然界の奥底に潜む真実を解き明かす科学は、この宇宙における私たち人間の存在について、深く考えるきっかけを与えてくれる。それこそが科学の喜びであり、私たちが大切にすべき価値だと思います。』
このように生活にも変化があり、そしてそれらを使いこなすことで私もこの60年位の急速な変化を肌で感じて生きてきた。10年位前はこれ以上急激な変化はなくゆるやかな発達と変化の時代になるだろうと思ったこともあったが、今は違う考えになってきている。特にパソコンの普及は想像以上に多くの変化を生んでいる。スマホも含め、よりパーソナルにあらゆることができる世界を切り開いている。これらはより楽しい喜びにつながっていくと思う。しかし我々の親世代がその時代の進化に追いついてゆけずに困ったように、これからの世代もその変化についていけないことが起こりうるだろう。特に貧富の差がまねく変化も大きな障害として問題になるだろう。共産主義が貧富の差を無くすことを目標にしながら、実際には民衆のやる気のなさを助長することにつながったことは結果として大きな社会実験になった。そして進化のない活気のない社会として残った。真実を知らなければ地球が今でも平らで、アポロ宇宙船が月に行ったことも全部噓で、それでも幸せならよいではないかという人々もいる。でもそれは間違っている。真実の情報は誰もが知らなければならない。ヘレンケラーは見えない、聞こえない、話せないの三重苦の障害者であった。それを「ものにはすべて名があること」を認識したときの感動を大栗氏は紹介している。『先生は樋口の下に手をおいて、冷たい水が私の片手の上を勢いよく流れている間に、別の手に初めはゆっくりと、次には迅速に「水」という語をつづられました。私は身動きもせずにたったままで、全身の注意を先生の指の運動にそそいでいました。ところが突然、何かしら忘れていたものをおもいだすような、あるいはよみがえってこようとする思想のおののきといった一瞬の神秘な自覚を感じました。このとき初めて私はWATERはいま自分の片手の上を流れているふしぎな冷たいものの名であることを知りました。この生きた一言が、私の魂をめざまし、それに光と希望と喜びを与え、私の魂を解放することになったのです。』このような感動と喜びは全人類が共通に知る必要があると私は確信している。
このような感動は真実の追及を保障してくれる社会的な背景がなければならない。また真実を明らかにする態度も必要である。そしてオリジナリティーを尊重し、伸ばしてくれる環境や背景があること。さらに楽しさを感じさせる感動があること。これらは創造の基本的条件だと思う。これが無かったり欠けていることが私の言っている「寂しさ」だと次第に強く思うようになった。それは嵐の前の暗さや静けさにも似て不安がうずまく状態である。それと物質と精神の貧しさである。
今から30年以上も前になるので記憶が少しおぼろげだが、「暗号の天才」というウイリアム・フリードマンの伝記を読んだ。第2次世界大戦の日本の真珠湾攻撃の際にも使われた日本の紫暗号と呼ばれた暗号を解読した人物の話である。なにしろだいぶ前なので詳しいことは忘れたが、この人は本当に天才と呼ばれる人物だったが、アメリカ政府からもその後の社会からも全く評価を受けずに不遇の生涯を終えた人である。イギリスでドイツのエニグマ暗号を解読したアラン・チューリングも、比べたら多少の評価の差はあるだろうがやはり不遇の生涯を終えた天才だった。後者は映画にもなり、多くの人が見たことがあると思う。
南部陽一郎の話にも出てくるが南部がアメリカに留学した際に最初に行ったプリンストン高等研究所は湯川秀樹や朝永振一郎も招聘されたことのある研究所で世界中のスター研究者がいたそうである。ご近所にいた晩年のアインシュタインには訪問禁止令があったにもかかわらず2度も会っている。当時の所長は原爆開発でのマンハッタン計画のリ-ダーであったオッペンハイマーだった。このアインシュタインに勝手に会ったことは気分を害したらしい。それでもオッペンハイマーに連れていってもらった会議でその後の別な道が開けた。2年間いたプリンストンはその後も語りたくないほどで、神経衰弱に陥ったと本人が言ったほどだったらしい。その後オッペンハイマーは赤のレッテルを貼られ原子力委員会からも厳しい査問を受け追放され、不遇の人生を送った。後に南部はアメリカに帰化するが、このことも要因の一つとされている。南部の業績は原子がさらに小さいクォークという粒子からできているとわかりつつあった時代で、その中で最後に発見されたヒッグス粒子。(何故ヒッグス粒子と呼ばれるようになったかというと南部がその当時の論文の査読をしていて、2~3カ月づつ遅れて投稿された3番目の論文だったため前の論文との違いが出るようように未知の素粒子の存在を書き加えらどうかとアドバイスしたことによって、ヒッグスの名で呼ばれるようになり、ノーベル賞も先にもらうことになったそうである。)また原子核の中の強い力と弱い力の統一理論等の基礎を提唱した。現在の超弦理論のはじまりであるひも理論。そして自発的対称の破れの理論はもっと早くノーベル賞をもらえる内容だったが半世紀もたってからの2008年だった。弟子たちや南部理論から派生した理論や実験で多くの人たちがすでにノーベル賞を受賞していた。皆が南部の業績だと知っていたにもかかわらず、論文として正式な発表がなかったことや、会議などでペラペラしゃべってしまうことが多かった人柄から、そこで発想を得た論文が先に発表されたりしたことが数多く存在したらしい。しかも次から次と興味の範囲が移り、難解な理論は理解をできる人がほとんどいなかったらしい。いつも10年先を行っていると仲間からも思われていたそうである。その後、一時は弟子であり共同研究者でもあった江口徹と西島和彦が共同で「南部陽一郎論文選集」を出版したことによって多くの理論が南部に先権があることを証明した。これがノーベル賞につながっているとのことである。
10年近く前に読んだ、「完全なる証明」はポアンカレ予想を解いたロシアの数学者グレゴリー・ペレルマンのルポルタージュだ。著者のマーシャ・ガッセンはペレルマンと同じ1967年生まれで旧ソ連で同じような境遇を生きたユダヤ人の女性である。この中にやはり旧ソ連社会の「寂しさ」が書かれていると思う。本文より一部抜粋する。『一九七〇年代後半のソビエトに生きた平凡な子どもの暮らしほどつまらないものが、この世にあるだろうか?私はないと思う。あたかも時の流れが止まったかのように、何の変化もない時代だった。ソビエトの歴史において、この時代は「停滞の時代」と呼ばれれている。経済は行き詰まり、文化ばかりか、生活のいっさいが凍りついたように滞っていた。ソビエトのイデオロギーまでもが、あらゆる意味において、死んだかのように動かなかった。前の世代の子どもたちは、共産主義の理想や、正義のための世界闘争を信じていた。しかし私たちの世代は、もはや何も信じてはいなかった。十年後、この大きな空虚感がソビエト体制を崩壊させることになるのだが、あの頃はきっと一生このままなのだろうと思っていた。‥中略‥こういう無数の町のどこかに、パラレルワールドが存在しているー 私がどうしてそのことに気付いたかは、今ではもうわからない。ここでいうパラレルワールドとは、数学の専門学校のことである。そこに行くためには、まず選ばれなければならない。そして私はついに選ばれた。‥中略‥入ったばかりの数学学校で、はじめて机に向かった日ー それは数学コンペティションにはじめて出場し、小さな希望をいだいてから三年後のことだった。ー 私は自由になったのを感じた。そこは頭のよいことや、勉強したいという気持ちが報われる場所だった。そこではすべての子どもたちが八年生を終えても勉強を続け、大学に進もうとしていた。それは一人ひとりが、ほかの誰とも違って見える場所だった。ー たとえ、あのぞっとするような制服を着せられてはいても。』しかし作者はユダヤ人で女性であることからその後の人生は思ったようには進めなかった。その後アメリカに亡命し、ジャーナリストになっている。グレゴリー・ペレルマンもユダヤ人であることで多くの障害があった。それを解消する方法は数学オリンピックで金メダルをとることだった。ペレルマンはそれらをクリアしたが、大学院には進める状況ではなかった。ましてやその先の研究者になることも。しかし飛びぬけた頭の良さで、またゴルバチョフのペレストロイカという改革に着手する等の環境の変化にも助けられたのかもしれない。そして恵まれた守護者たちによって、世界へと道が開らかれた。1990年にアメリカへ行く機会を得た。そして2002年にポアンカレ予想を解き、メールで10人あまりの数学者たちに送った。それが認められるまでには紆余曲折があった。そのこともその後の行動の原因ともいわれている。数学界のノーベル賞といわれる4年に一度で40歳以下の顕著な業績をあげたものに授与されるフィールズ賞を辞退した。またクレイ研究所が2000年に、今世紀に解くべき7つの難問を設定し、それぞれの問題に100万ドルの賞金も用意したミレニアム賞も辞退した。その後2004年にはロシアに戻り、誰とも連絡をとらない隠遁生活を送っているという。何故ペレルマンはそのような行動をとったのか。本人には会えなかったので、彼の教育に携わった人や、知人を尋ね歩きルポルタージュした作品である。結局は真意を明らかにすることはできなくとも旧ソ連の社会状況を描き出すことで、共通の境遇を生きた作者ならではの自身の回顧と著述で、その真実に迫っている。作者はその後、プーチンについても書いている。