三つの誓い

三つの誓い

 私がデザイナーになりたいと思ったのは小学校6年の時である。車が好きで毎日のようにノートや広告の紙などに描いていた。あるとき、学習雑誌だったと思うがカーデザイナーになるのにはどうしたらいいかが書いてあった。そこには千葉大学に工業意匠学科というところがありそこで勉強できるとあった。そこからずっとカーデザイナーになることを夢見ていた。いつか千葉大に行こうと思った。しかしそこからすなおに進めるわけがなかった。第一に経済的に無理であることはわかっていた。次に高校生になるとこの大学に入れる能力がないことに気が付いた。1年の時は入試の成績順でクラス分けになって8クラスの内、良いほうの2クラスに入ってしまった。微積分から数学の面白さがわからなくなり、他の成績もおしなべて下がっていった。今思うとフィジカルの大事さやプラグマティックな概念を教えてくれなかったし、自分でも理解していなかったからだと思う。どうせどこにも行けないし、何を目標にしてもよいかもわからなくなっていった。2年生からは理系と文系に分かれ当然のように理系には行った。アポロ11号が月に着陸した日、駅の待合室の小さなテレビに釘づけになった。結局その日はずっと待合室のテレビを見続け学校へは行かなかった。ものすごい感動だった。どうして休日にしないのだろうかと本気で思った。冷静に考えれば日本が休日にできるわけがなかったのだが。「プリズナーNo.6」というイギリスのTVドラマに夢中になった。ある村からどんなにもがいても脱出できないというのを毎週のように繰り返すのだ。ブラッドベリの小説にもはまり込んだ。10月△△日地球最後の日という内容の短編が本当に現実になるかもと妄想した。だんだん進路についてのリミットが迫ってくる。その時、図書館で一冊の本と出会った。石川弘 著「レンダリング・モデリング」という一冊だった。当時IDに関連する本は日本では皆無だった。そこにあった千葉大学工業短期大学部の工業意匠学科の助教授という文字に目が止まった。あと3か月位のころ少しばかり勉強した。親もなんとか説き伏せ、いよいよ受験日がきた。なんとか合格でき、あこがれの先生にも会うことができた。3年が過ぎ専攻生で残った。それからの3年は先生の紹介で建築金物やAlサッシを製造しているメーカーに行きながら学校でも助手のお手伝いをした。「レンダリング・モデリング」にも書いてあるTACOというゼミのメンバーとして多くの貴重な時間を共有できた。そのころは、もう「レンダリング・モデリング」に載っていたメンバーは井村さんを除いてはいなかったが。帰りに焼肉屋に寄り、生意気にも先生にいつも反論したりして「七尾は田舎の大将だ」と言われたこともある。いろんな思い出があるが、その時の助手が井村五郎先生である。井村さんにも生意気にも絵が下手だと言って「明日から来なくてもいい」と言われたこともある。でも一番いろんな話をしていろんな社会のしくみを教えていただきかわいがっていただいた。その頃の井村さんの口癖は「世界に冠たるものを作るんだ」だった。とにかく話好きで論を戦わせた。その後1年後輩だった妻との結婚の仲人もお願いした。

 それから、家庭用品をつくる「ニッスイ工業」という会社に移った。その面接でどのくらい開発費用が使えるかというのを質問した記憶がある。その前にいた会社では予算が無く、プランだけに終わってしまったからで、そのような質問をしてしまったのだと思う。そのころは20億位の売り上げの会社だったが、社長が数年後には売上の1割は開発予算に回すと社内で公言した。私がいた頃は日用品工業組合という団体の理事長をしていた。当時の日用品をつくっている会社はおしなべてこのくらいのレベルで50億以上あったのは積水化学と、LEC位だと思う。結構おもいきりいろんなことができた。失敗もあったが成功した例も多く、だんだん信用もしてもらえたと思う。その時に「三つの誓い」をたてた。誓いというより目標だが。その三つは1:バケツ、2:大根おろし、3:醤油差しをつくることだった。別にこの三つでなくてもよかったのだが生活に密着した家庭用品の代表だと当時は思ったのだと思う。なんでこんな目標をたてたのかは名状しがたいが、次のようなことである。石川先生に接してからは自動車にそんなに興味をお覚えなくなっていった。もう一つは70年安保で、私の1年上の世代は現役東大入試が無かった年である。入試も千葉市の体育館で機動隊に護衛されながらであった。授業中に石が飛んできてガラスが割れたこともあったが、夏休みが過ぎたころにはもうそのようなことはなくなった。卒業しないで留年している先輩たちも多かった。上京してお世話になった叔父さんが警視庁から機動隊にかりだされていたこともあり、それなりに注意もうけていた。政治に興味はなかったが、人間の豊かさは何かということには興味を持っていた。そこから生活の向上には身の回りに存在する生活用品が変わっていけば生活の豊かさにつながっていくんだという確信めいたものがあった。住宅公団の普及で60年代の生活がめざましく変化していった時代である。ソ連や東欧諸国にデザインが存在できないということがショックで社会主義や共産主義の政治が生活を豊かにするのではないということははっきり認識していた。そのようなことがあったのだと思う。最近TVでノルウェイからイタリアまでの鉄道の旅という番組を見た。北のノルウェイから出発し、スウェーデン、デンマーク、ドイツ、スイス、オーストリア、イタリアのシチリアまでの乗換鉄道の旅である。その中でドイツはハンブルグから旧東ドイツを通ってスイスへはいるというルートだった。どの国も日本以上に楽しくなるような車両が多かった。きれいで景色が楽しくなるような車両だった。カラフルな外装や、楽しくなるカラーの内装だった。その中で旧東ドイツの車両だけは楽しさどころか、寂しくわびしくなる雰囲気をかもし出していた。車両も車窓からの景色も極端にいうと中世の雰囲気だったのだ。今でも旧東欧やソ連では昔ながらの自動車をまだ見かける。コロンボ刑事の乗っていた車やあのドラマを見るとまず寂しさが先にくる。旧東ドイツの良さだけでは片づけられないものではなかろうか。建物もなぜかメンテナンスがされていないようで、他の国のように活気を感じることができない。格差が依然として存在しているのだと感じた。この寂しさが私には耐えられなかった田舎の生活だった。今年のノーベル賞を受賞した真鍋淑郎氏の会見談話でアメリカに帰化したことや日本へは帰りたくない理由を言っていた。いかに日本よりアメリカの方が自由に研究ができるかが述べられていた。もちろん認められるような能力と実績があるからだ。スケールでは全く比べようもないが私が何故田舎に帰りたくないかはこの日本特有のやさしさと協調からくる不自由さが最大の原因である。それが特に強い地方だったように思う。そして寂しいのだ。器用さと巧みさとパワーがありその労力を惜しまなければ日本でも職種によっては可能性はあるかもしれないが。また先日来、津野海太郎 著の「最後の読書」の後半で語られていた都賀敦子の作品を読み始めた。だいぶ以前に「コルシア書店の仲間たち」という本を読み、抑えられた表現のなかに一種の寂しさを感じ、それ以上は入り込めない人だった。今いくつか読んでいるが、そのこと自体は変わらないが、人の心にしっかり入ってくる人だなと思った。それがこの人の文章のうまさだと感じた。その中に夫であったペッピーノの家族の住んでいた鉄道官舎が書かれている。踊り場のある家や手すりのある家というのも出てきて、トイレは共同でお風呂ももちろんない貧しさの象徴として書かれている。これも寂しさの象徴だ。つまり、私は寂しさから抜け出す道をデザインに求めていたのだと思う。それが生活の豊かさにつながっていると信じていたのだ。それが三つの目標に繋がっているのだと思う。

 その三つの中で先の家庭用品の会社で「大根おろし」はできた。その会社の創業者がアイデア社長で私が入ったころは既に会長だったが、いろんなものを商品化していた。その中に大根おろしもあったようだが、私が入ったころにはすでに廃番になっていた。ユーザーの声が郵便で時々来てその中に御社の大根おろしが気に入っているが今は無いというのがあった。だから比較的商品化するための素地はあったように思う。調理道具シリーズとして十数点商品化できた。評判もよく売り上げにも貢献できた。その中の1点が「大根おろし」で特に評価も良くロングセラーになった。次の「バケツ」に関しては同じころか数年後に、吉川国という会社のライクイットブランドで発売された。今でも愛用しているがこのデザインは秀逸である。これには負けたと思い、バケツは諦めた。残った「醤油差し」は何度も企画に出したが会社を辞めるまでに通ったことが無かった。シリーズにしないと売れないや対投資効率でGOが出なかった。その後もあまり商品が出まわらず、出た商品でも納得できるものはなかった。多分需要が減っていったのだと思う。まな板も包丁も無い家庭が存在するようになっていたこともあるかもしれない。生活自体が寂しくなっているのかもしれない。最後のテーマになってしまった。そして数年前なんとか自分で作り商品化にこぎつけた。結果はさんざんであった。私自身の能力不足だが広く告知をできなかったことが最大の問題である。マーケティングもただではできない。個人でやることの難しさをあらためて感じた。でもこれでやり残したことはないとやっと最近思えるようになった。

 本当になまいきで無謀で鼻持ちならない人間だと思う。まわりを気にすることに疲れ、でも迷惑をかけている。人間である前にデザイナーでありたいといつも思っていた。今でも受け取る側であるより作る側でいたいと思い続けている。創造することこそが生きがいだ。その中で投資費用をかけずにしこしこと生涯続けられるライフワークとしてフォント作りは残った。フォントも寂しさを吹き飛ばす大きな力を秘めている。

 写真は調理器具シリーズ、大根おろしは右側にある。この中のいくつかは今でも我が家では現役。その中で最近整理していたら出てきた野菜水切り器、つい最近まで使っていた水切り器のハンドル付きバージョン、しょうゆさし、そしてずっと使っているライクイットのバケツ。