フォント・文字・日本語のあれこれ-1

 最近菅首相に代わってから河野大臣らによって印章を減らす運動が勧めれている。印鑑を押すことは日本の書画などでは最後の仕上げとしての証明である。そして楽しみでもある。私の住んでいる山梨県では印章組合なるものがあり、県庁も率先して反対運動を行っている。なぜ山梨県は印章製作が盛んなのかというと昔から水晶が産出しその加工も盛んだったことに起因するらしい。いまでも宝石類の加工では日本一ということである。私の銀行印も山梨の会社に依頼し作ってもらったものだ。すごく気に入っている。お金は全く貯まらないけれど。このようにハンコは楽しみや大事な証明としては存続してもらいたい。ちなみに会社を立ち上げたときの社判は自分で作った。原図を作成し、ゴム印を作ってもらいそれをABSの軸に貼った原形をきれいに仕上げ、シリコンで型を取り、デブコンを流し込み、最後にそれを研いで磨いて仕上げたものだ。脱泡設備がなかったので細かな気泡が見えるがそれもまた良しである。

 さて、そのむかし、私が高校受験のときに、落ちたらどうしようと一生懸命考えていた。落ちたら「ハンコ屋」に弟子入りしようと本気で考えていた。ハンコは小学生のときによく作って得意だった。本田宗一郎も得意にしていたらしい。通信簿の保護者の押印のところに自作のハンコを押して通していたらしい。それを友達に自慢し、友達のものまで作ったたことでばれてしまった。縦書きの「本田」は左右対称だが友達のはそうはいかなかったからだ。有名な話らしいがうそっぽい気もする。話がそれたが私も本気だったということ。でも実際には500人位いた中で高校受験に落ちたのは一人か二人位だった。(高校の進学率は90%近くはあったように記憶している)先生があらかじめ能力に合わせて割り振りしていたからだ。これが私が文字に関心をもったきっかけのひとつだったかもしれない。

 いやその前のほうが大事だった。小学校の書道の時間だ。でも実際には、書道の道具は準備させられたが学校での授業は2回位だったような気がする。その前に道具を準備したときに父に手ほどきを教わった。昔の人は当たり前のように筆で字を書いたのだからうまくてあたりまえだったかもしれない。父は墨の磨り方から筆の持ち方、姿勢まで教えてくれた。学校で教わった記憶が無いのも当たり前のような気がする。なかなか教えられたようにはできなかったが、エッセンスは憶えた。うまい字がどのようなものかも分かった。これが今でも字のバランスを判断する基準として生きていると思う。また私は教科書体が字の基本だと思って育った。光村図書という我々が使用した国語の教科書にも使用されていた。写研が関わって作成した教科書体は私が使用した時代のあとでできたものらしい。きれいでバランスの取れたすぐれた書き文字だと思っていた。だから教科書体こそ字の基本であるとして受け入れ、それが私の根底にある。今でもそれはかわらない。字の構成、バランス、画数の表現、全てにおいて基本になっている。